なごみ戦士の休息

ありふれた日常の中でも好きなこと見つけたい

ゆとり教育の僕ら


ゆとり分の中には何を入れる?
どうも、なごみ戦士です。


ゆとり教育は現在無くなりましたね。
最近だと勉強量(教科書)が増えたため、休日が減り、ランドセルが重たくなったり、置き勉OKの学校があったりするみたいです。

私の子供時代とは逆ですね。



私はゆとり教育を受けた人間です。

ゆとり教育は間違っていた」
今じゃそんなこと言われることもありますが、

それはちょっと待ってほしい。


数値化された結果では、私達は確かにそれまでの結果には劣るのかもしれないけれど、数値化されてない部分ではどうなのだろうか。


今までは人生にパターンがあって、いい学校に行って、いい会社入って仕事して、結婚して、子供が生まれて育てて、定年まで仕事…のような決まった生き方が大方の流れのようになってたと思う。


それが今、働き方・生き方自体に選択や自由が、昔に比べたらずいぶん増えました。

ゆとり教育を経た私達が大人になって、社会に出て活躍し始めてくらいから。

教育の中に「ゆとり」を作ってくれたおかげで、
それぞれが個人の生き方を探し、見つけられる時間が得られたのではないかと思います。
(何が大切で好きなのかとかを追求する時間もそうかもしれません。それは全て自分なりの指針を見つけることに繋がります。)


集団や組織などの大きな社会性。
それを前にすると、個人の意見や考えは尊重されません。下手したら潰されることもあります。


そんな大きな流れに、小さくとも無数のメスが入れられたのは、個人を大切に出来たゆとりの時間。


これまでの社会が成り立ってきたのは、
先人の大人達。
きっと自分を犠牲にして社会に家族に尽くしてきた人もいるのだろう。

そのおかげで、私達も大人に育てた面もあると思います。

社会性を大切にしてきた先人達。
個人も大切にしていきたい私達。


だから、その人達にとって私達は、
「これだからゆとり教育は」と思われる所も
多々あるのだろう。

それでも、自分を削りながら苦労していた大人達を子供のころ私は見ていた。


個人を犠牲にするだけの社会はもう必要ない。


社会だけに焦点を当てて生きてきた大きな流れから、個人を犠牲にせずに、尊重し、それでいて社会を保っていく、そんな流れに変容しつつある。


そのただ中にいて一躍を担っているのが、
今活躍しているゆとり教育を経た大人達。


新たな価値観は混乱と軋轢を生むけれど、
自分の子、孫と続いていく中で、どんな社会で生きてもらいたいのかを考えると、ゆとり教育の端くれとして、私は個人と社会の両立を望んでいる。



大きな社会の中で小さな個人が苦しむ姿は、
もう見たくはないのだ。




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